当たり前のことを、当たり前に
先日、嬉しくも一人の1年生の女の子がわが塾に入会を申し込みに来た。彼女は夏期講習で講習生だった生徒で、9月に入ってからは音沙汰がなかったのだが、10月から入会したいということで再び来てくれた。
10月からクラスに合流となると、9月中に授業で扱った内容が抜けてしまうことになり、それは後々のことを考えると大変である。ちょうど僕と彼女との時間が合ったので、大雑把に補習をすることにした。
内容は、数学Aの「集合」。習った人なら覚えている記号もあるだろうが、,,,などちょっと見慣れない記号のオンパレード。でも計算が難しいわけではなく、どちらかといえば「文章を正確に読み取る」とか「論理的に考える」ことのほうが重要な単元である。
そして、一対一なので彼女に一つ一つ聞きながら例題を黒板で解いていると、どの質問にも100%正しい答えを返してくる。なのでこれは大丈夫だと思っていた矢先。
「先生、何でその答えが正しいのかが、全然分からないんですけど・・・」
という意外な質問。
「え?全部きちんと解けてるじゃん?じゃぁ何で正しく答えられたの??」
そして彼女は即答。
「だって、それ以外答えがありえないから」
・・・つまり彼女は、ただあてずっぽうで答えを出したわけでは決してなく、きちんと考え、その上でしっかりと正しい答えを導き出したのだ。そうでなければ、どの問題も100%正しく答えられるはずがない。
質問の真意のほどは分からないが、彼女はただ単に、自分の考え方や答えに自信がなかっただけなのかもしれない。あるいは、あまりにもあっさりと正しい答えが出たので、驚いていたのかもしれない。その後も彼女は、やみくもに公式に頼りすぎることもなく、一つ一つ丁寧に考えて、正しい答えを出し続けていった。
そして、そんな彼女とのやりとりの後で、僕はこう考えた。
「数学とは、当たり前のことを当たり前に考えれば、正しい答えが出る教科である」
つまりどのような問題を解く場面でも、突飛な発想があるわけではなく、「この値を求めたいから、この公式を使う」とか「この証明をしたいから、このように式変形する」ということだけの積み重ねだけで、全部正しい答えが出せるのだということだ。
もちろんいろいろな解法が「当たり前」の発想となるためには、ある程度いろいろな問題を練習して、経験値を上げていくことは必要である。たとえばピアノを習い始めたという人が、名曲を暗譜して弾けるようになるためには、鍵盤の押さえ方から始まって簡単な曲から一歩ずつ練習していくように。
教師の側からしても、生徒にはなるべく「そんな発想、思いつかないよ!」と思われたくない。決して難しい知識をこねくり回し、アクロバティックな解法を見せて得意げになっているとは、思われたくないのだ。教師の仕事とはそういうことではない。
そういう点では僕はいろいろな問題を解くとき、決して綺麗ではないし計算も大変になるかもしれないけれど、地道だし発想しやすい解法をなるべく作るようにしている。そしてもし時間の許せば「うまいやり方」も紹介し、いろいろな解法を生徒に感じてもらうようにしている。それらのようないろいろな解法は、どちらが良いとか悪いとかではなく、理解のしやすさや、応用のしやすさ、そして好みの問題だと思う。
そういうことを気にした僕の授業は、華やかさはないかもしれないけれど、支持は厚いと秘かに思っている。
(2006.09.28)
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