受験生へのはなむけ2
自分の受験する学校の試験がすべて終われば、結果が出る。
第一志望に合格できる人もたくさんいるだろう。そのときは素直に喜べばよい。だが残念ながら、第一志望が不合格になってしまう人も同じくらい多いだろう。
だから受験生たちは、自分こそが合格するのだと、必死になっている。不合格になったら、落ち込む。一体自分の何がいけなかったのだろうと考える。
しかし試験の結果というのは、実はそれを受ける前からすでに決まっていると僕は思うのだ。
誤解してしまうといけないのだが、なにもこれは、「あがいても無駄だ」といっているのでは決してない。
もしもこの世に神というものが存在するならば、その神はきっと、一人ひとりを最もあるべき場所へきちんと配置してくれている。
たとえばオリンピックの選手とか、自動車を修理する人とか、農業に従事する人など、おそらく僕自身なら絶対出来ないような仕事についている人が、世の中にはたくさんいる。もしも僕のような人間しかいなかったら、世の中のバランスがひどく悪くて、きっと不便な思いをするはずだ。だから世の中は良く出来ているとつくづく思う。
ならばその世の中にいる限り、仮に自分自身にとっては不本意な結果が得られたとしても、実はそこがあるべき場所なのだ。
僕自身の大学受験で言おうと思う。
僕は一年間の浪人生活の後、第一志望校には残念ながら合格しなかった。第一志望校は自分の住む実家からははるかに遠く、どうしても一人暮らしをせざるを得ない。ところが通うことになった第二志望校は、実家から通えて、しかも東京の都心にある。
一人暮らしをすると仕送りが必要になるから、その分実家には負担をかける。また都心に出れば、いろいろなものと出会える。僕は銀座へ映画を見に行ったり、神保町へ古本を買いに行ったり、友人と都心の旧跡をめぐって20kmくらい歩いたり、それはそれで楽しく過ごしていた。
そしてさらに言えば、都内の就職勉強会の場でたまたま出会った人が、今僕の奥さんになっている。変な話、もしも第一志望校に合格してしまっていたならば、出会えなかっただろう。
神のたとえで言うならば、ちょっとかっこよすぎるが、「都心」が僕の「あるべき場所」だったのかもしれない。
ならばどんな形であれ、その「あるべき場所」に自然と向かっているのだと信じて、おおらかに構えていれば良いだけの話である。これによって、「結果が決まっている」ということが、「あがいてもどうせ無駄だ」という意味にはならないことが分かってもらえるのではないだろうか。
ところで僕は浪人していたときに一番勉強したのが数学で、模擬試験でも点数が取れるようになってきてかなり自信を持っていた。だが、その数学に携わる仕事についた今振り返ってみると、当時はずいぶん統一感のない、場当たり的な解き方をしていたし、細かいことばかり気にしすぎて大事な柱を見逃したりしていたなと思う。
そんなことにいまさら気づけたのも、縁があってこの仕事に就けたからである。やはりこれも僕の「あるべき場所」なのだ。
なんだか、不合格だったときの慰めの言葉みたいになってしまっている。だがそんなことはなく、合格と不合格とを両方ともFlatにとらえているつもりだ。どちらも、その得られた結果こそが、自分の向かうべき道なのだ。
そう思うと、なんだかすごくゆったりとした気持ちになりはしないだろうか。
・・・またまた長くなってしまったが、はなむけの言葉、あともう一回続く。
(2006.02.06)
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